葵紋

葵(アオイ)

ウマノスズクサ科に属する植物で、「フタバアオイ」とか「カモアオイ」の俗称がある。
平安時代の衣服の文様に登場する小葵は天竺葵と呼ばれていたもので 双葉葵であったようです。
古い賀茂明神の神章はカモアオイであった。賀茂信仰が隆昌するにつれて、両者の混同が激しく
なり、フタバアオイが本義の葵を圧倒してしまった。賀茂明神の神章が文様から紋章の世界に乗
り出してきたのだ。
 家紋としての葵は、「見聞諸家紋」(別名「東山殿御紋帳」ともよばれ室町幕府八代将軍足利
義政のころ、将軍家以下二百六十に及ぶ家紋を収録したもの)に見え、丹波の国船井郡の豪族西
田氏からと伝えられている。この中の西田氏使用の葵紋は第三十六帳の表に 蕾一つを二枚葉の
中間に結んでおり、きわめてリアルな双葉の立ち葵。丹波地方には賀茂妃神の出自を物語る神話
群が多く、古く奈良朝期から賀茂信仰の盛んな地方で、西田氏の所領内に「下鴨の宮」とよんで
いる「神野神社」がある。
戦国時代、三河地方に賀茂神社の氏子が多く、加茂郷とか加茂村と称する所があり、豪族本多・
松平氏らが葵紋を用いたのも賀茂明神を一族挙って熱心な崇拝者となり氏子になったからであっ
た。
徳川氏は、三河の国(愛知県)賀茂郡松平村から出て松平姓であったが、永禄9年(1566年)
家康が徳川(得川とも書いた)と改めたのであった。南北朝のころ、新田氏の後裔世良田親氏に
女を配して、家を継がせたので源氏だというが、家紋の葵は鴨(賀茂)氏に関係あるものかとい
われている。
徳川幕府では、御三家御三卿だけが徳川姓を名乗り、三つ葉葵の紋章を用いることを許し、その
分家や庶流の家にはこれを許さず、姓は始めの松平姓を名乗らせ紋は少し異なったものを用いさ
せたのであった。
「葵紋」必ずしも一様でない。初代家康から現在広く知られている「徳川葵」までには下記に示
すようにかなりの変化を経ております。

家康(初代将軍1603-1605)1542-1616
秀忠(第二代将軍1605-1623)家康の第三子1579-1632
家光(第三代将軍1623-1651) 秀忠の二子 1604-1651
初代より三代が33葉の葵巴で茎のみが変化する
No.1: 33葉 細い茎で茎が黒色
No.2: 33葉 細い茎で茎が白色となる

家綱(第四代将軍1651-1680) 家光の長子1641-1680

No.1 19葉で葉の配列が先代と異なる。
No.2 後に19葉から頂点部分に4葉追加され23葉となる。
綱吉( 第五代将軍1680-1709在職 家光の第四子1646-1709)
No.1: 27葉 茎太くなる
No.2: 23葉に減葉される。
第四代に比べ葉数増え茎が太くなるが後に23葉にもどる。
家宣(第六代将軍1709-1712)綱吉の養子 1662-1712
No.1: 29葉 
No.2: 27葉

家継(第七代将軍1713-1716) 家宣の代三子1709-1716

   
不明
吉宗(第八代将軍1716-1745)1684-1751  
01509; 21蘂
家重(第九代将軍1745-1760) 吉宗の長子1711-1761
家治(第十代将軍1760-1786) 家重の長子1737-1786
家斉イエナリ(第十一代将軍1787-1837) 1773-1841
 
01510: 現在の「徳川葵」に近い形で13蘂の葵巴となる。
家慶(第十二代将軍(1837-1853) 家斉の第四子1793-1853  
隅切り鉄砲角三つ葵巴21葉
家定(第十三代将軍1853-1858 家慶の代四子1824-1858
家茂(第十四第将軍(1858-1866) 1846-1866
慶喜(第十五代将軍(1866-1867) 1837-1913