家紋の性質と習慣  

 家紋は本来は名字に代わるものとして用いられたわけですから、一個の名字に対して一個の家紋でよいはずだったのですが、高位の者から下賜されたり、或いは付与されたり奪取したり、時には本来の使用家に断り無く勝手に使用したりと、その使用方法は乱れ、一個の名字に少ない場合で2・3個から多い者では十数個の家紋を持つ者まで現れました。  
 徳川時代で見ると、大名で多いのは伊達家・山内家等です。
  伊達家では「竹に雀・牡丹・三つ引両・九曜・おしのまる(鴛鷺湾)・桐・なずな」の七種類、山内家は「三つ葉柏・白黒一文字・大一大万大吉・桐・石持ち・鎌に輪・浪丸・折烏帽子・九枚柏」の九種類を使用していました。

 一家でこの様に多数の家紋を使用していると、家紋の目的である効果が無に帰してしまいますので、これらの紋章の中で特に名字の目的に使用するものを定める必要が生じました。
そこでこの目的に沿うように定められたものを「定紋(ジョウモン)」といい、その他を「替え紋(カエモン)」といいました。
  「定紋」は「本紋」「正紋」とも称され、主として公式の場合に使用します。
 「替え紋」は「副紋・裏紋・別紋・控え紋」等と称され非公式の場合に使用する家紋を指します。
  例えば山内家で定紋は三柏、替え紋を白黒一文字としたようなものです。

  このような区別は徳川時代の参勤交代の制度が始まった頃からで、後には庶民にまで浸透しました。
 この本紋替え紋の区別は、その家紋が古いか新しいかではなく、主として武功に関わった由緒や名誉ある謂われをもったものなどが選定の基になっているようです。
 例えば、毛利家の一文字三つ星紋は大江氏に係わる最も古い家紋なのですが、「沢潟」紋を定紋としたのは元就の武功を記念するために創られたものだと伝えられています。
  伊達家の定紋「竹に雀」は関係が深く権威のあった関東管領の上杉家の紋章であったからです。

 家紋が主に旗や幕に使われた頃は単に識別しやすいことが目的でしたが、衣服に付けるようになると、ただ識別し易いだけでなく、優美さが求められ選ばれるようになりました。特に婦人方は実家の家紋をそのまま使用したり、特別に婦人専用と定めて使用するようになりました。
  この習慣は武家に止まらず、民間一般でも行われるようになりました。
「女紋」という名称がここから始まりました。
 地方により異なる習慣ですが、関西以西での婦人用の家紋は、結婚の時、新婦が実家から持ってきたものです。
もしこの新婦が女子を生み、後年その女子が更に他家へ嫁ぐ場合に、再びこの家紋が用いられます。
  したがって婦人用の紋章は婚姻の度にA家かB家、B家からC家へという具合に転々と移動していくことになります。

 将軍家諸大名の家では、定紋はその家の正嫡の者が継承することが原則で、次男や庶出のものは定紋と多少その構造を異なるものにするのを普通としました。
 例えば、越前の前田氏の場合、一門が分かれて加賀金沢・加賀大聖寺・越中富山・上野七日市の四家となって共に梅鉢紋を本紋としていますが、この梅鉢紋には多少の差異をつけて区別することにしていました。
本家である金沢前田家は「剣梅鉢=加賀梅鉢」、大聖寺前田家はこの剣梅鉢の剣形を瓜実形にしている「大聖寺梅鉢」、富山の前田家はこれを丁子形にして「丁子梅鉢」、七日市の前田家はこれを抹消して「素梅鉢」となっています。
加賀 大聖寺 富山 七日市

  また 毛利家も長門萩・府中・清末・周防徳山の四家で本紋に「沢潟」紋を、替え紋に一文字三つ星を使用しています。本紋の区別は沢潟の花と蕾の形状で区別していますし、一文字三つ星では一文字の形状で区別するようになっています。
萩  徳山  府中  清末

  さて、どのような紋章でもその目的は名字や称号の目標として用いられているものですが、名字の数は多く、紋章の数は少ないために、一個の名字でこれを独占することは極めて希なことです。したがって、それが最も多く用いられて、出自の如何にかかわらず、各姓氏に共通の紋章があり、これが「通紋」といわれてます。 この種の家紋は形状が優美で描き易いものがあてられます。俗間ではこれをムダ紋とかタダ紋とも言います。